投稿日:2021年03月02日(火)
戦闘力
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」
江戸時代の農政家 二宮尊徳の名言です。
「代表的日本人」で紹介されている5人の中の1人です。
ここ1年の騒動により、「禍」という文字を見ると反応してしまうようになってしまいました。
落ち着く気配を感じることができないことを残念に思っております。
「禍」が、「福」に変わらないのは、術策が原因なのでしょうか。
それよりも、今回の世界的な「禍」から派生して起こった「禍」に奔走されている方々に対して、他人事とは思えない気持ちがあります。
奔走しながらも、「誠実さ」により、「福」に変えている方々も少なくないようで、見習わなければと思わされております。
今後、どのような「禍」が起こってたとしても、それに対しての「術策」が続いていくのだろうかと考えると、切ない気持ちになってしまうのですが。。。
巷間、「禍」は、足元に転がっている。
わざわざ拾う必要はないが、拾おうと思えば、拾えるほどではないだろうか。
基本的に、自分自身に起こるネガティブな事象を「禍」と解釈してしまう。
「禍」が起こる度に、自分の非力さなどを憂いてしまう。
「禍」が運んでくるネガティブな感情を、どこかで断ち切る必要性に迫られる。
何もしなければ、ネガティブな感情が増幅していくが故、どこかで断ち切りたいと考える。
ネガティブな感情には、ある程度の「共通点」が存在しているような気がしている。
最近、過去の「禍」を振り返ってみて、ふと感じた。
自分の力では、どうすることもできないこと。
これが、「禍」なのではないだろうか。
わかりやすいところでは、自然災害も「禍」になる。
この定義が正しいのであれば、「禍」に対してどうこう考えるのではなく、自分自身で、できることは何かを考えていく方が、建設的であるように感じている。
自分に落ち度はないか、自分の言動により引き起こした「禍」ではないか。
考え出したら、改善点は、沢山見つかる。
その改善点を改善すべく、アクションを起こすか否かも、自分自身でできることに含まれるだろう。
今回の件、ウィルスを敵視することは、「誠実」な対応なのだろうか。
人間の身体の中には、多くの細菌やウィルスが存在している。
ウィルスについては、宿主との共存という解釈が正しいようだ。
うがい、手洗いはもちろんのこと、
基礎代謝を上げる。
血行を良くする。
誠実に取り組めることは、沢山ある。
が、この1年、その「誠実さ」について、多くを語られることは少なく、「人数」などに焦点が当てられていたような気がする。
「禍が訪れたとき、それを誠実に解決し、「福」に変える方法は何だろう?」
この名言により、術策ではない方法を見つけ出す「術」を身に付ける必要があると思わされた。