投稿日:2020年11月17日(火)
分解力
「無知を恐れるな。偽りの知識こそ恐れよ。」
フランスの哲学者 パスカルの格言です。
情報過多の時代、巷間、偽りの知識が、溢れております。
時々、何が正しくて、何が間違っているのかすら、わからなくなったりもするほどです。
そんな中、書籍から得る情報は、正しい情報であると確信し、読書の時間を楽しんでおります。
同じ専門家の話でも、考え方の違いからなのか、違った情報を発信しているものも多く存在しているように思いますが、色々な考え方に触れる機会として捉えております。
ネットの情報を鵜呑みにしてしまう瞬間があります。
その情報に、右往左往してしまう瞬間です。
ゴシップネタなどは、気晴らしとして考えるようにしておりますが、本当に正しい情報なのか、精査する術を身に着ける必要があるのかもしれませんが。。。
「知らぬが仏。」
世の中には、知らなくて良いことがある。
「知らない方が良いことなのかもしれない。」と思わされることもある。
知らないことに触れたとき、必ず自問していた。
「この情報は、知る必要があるのだろうか?知らなくて良いことだろうか?」
この考え方を基にすると、教育機関で学んだことのほとんどは、知らなくて良いことになる。
世の中に出て、「微分積分」の知識が役に立っことはないのは、良い例ではないだろうか。
富裕層、貧困層などの単語が物語っているが、世の中には、あらゆる階層が存在する。
良し悪しは別の話として、それぞれの階層では、それぞれの常識がある。
「知らなくて当然」という階層。
「知らなくて恥ずかしい」という階層。
「知っていて当然」という階層。
「無知」の捉え方の違いと解釈している。
「無知」が故に、知識を得ようとするのが、知的好奇心から来るものだろう。
逆に、知識を得ようとする行為は、「無知」を恐れているからなのだろうか。
知識を増やしたいという好奇心により、自分自身の「無知」に気付かされることになる。
その好奇心が続く限り、「偽りの知識」に対しても敏感に反応できるようになるのではないだろうか。
「無知」に対する「無関心」は、「偽りの情報」を引き寄せたりするのではないだろうか。
知識がないが故、情報を精査する上でのモノサシがなく、入ってくる情報を鵜呑みにしてしまうに至るのではないだろうか。
「無知」を恐れるが故に、自分の「無知」に気付かないように生活する。
必然的に「内向き」な生活になる。
触れる情報も、ポジティブではないものが含まれてくる。
「偽りの情報」が含まれてくる。
それに気付けている人は、どれくらいの割合なのだろう。
まずは、「無知」を恐れないところから始めなければならないのだろうか。
「無知」が故に、わかりかねている。。。
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