投稿日:2020年10月13日(火)
表顕力
【 自己分析のための過去回帰。「進むべく未来」の先にある「約束の地」へ・・・ 】
「他人を感動させるには、人と違った気配りを見せることです。」
米国の教育家・牧師の格言です。
この格言からのメッセージを肝に銘じ、日々過ごすよう努めております。
「人と違った気配り」とは何なのだろうか?
ふと、そんなことを考えてしまいました。
人との違いを見せることができる「気配り」が存在するのだろうかと疑問に思った故だと思います。
「お・も・て・な・し」という単語が、流行語となりました。
流行語になったことが、「おもてなしの心」の大切さを考えさせられるキッカケになったように思います。
「おもてなし」と「気配り」は、同意語のように感じております。
自分なりに色々なことを試しながら、辿り着いた感覚です。
ただ、「と違った気配り」について、わかりかねております。。。
「利他の精神」
新・経営の神様から学んだ精神。
何をするにしても、この精神を根底に据えることを心掛けている。
人間、目先の利益を追い求めてしまうという「性」に苦しんでいる。
勿論のこと、僕自身も例外ではない。
その「性」に逆らいながら、気持ちを整える作業に奔走している。
色々な書籍から学んだことがある。
「気配り」には、ある規則性がある。
その規則性に基づいてる限り、「気配り」は、画一的なモノであると考える。
手法の部分で個人差があるとしても、根幹は、同じであると解釈している。
最近、「気配り」に関する書籍を読了した。
目新しい内容のものは、皆無だった。
「気配り」に関する書籍は、相当数読んできた故だろう。
新しいことを知り、試してみる作業を経てきたことにより、新たな気付きを得ることができた。
既知のことに触れ、自分自身のアクションに自信を持って良いことを確認できた。
次は、「精度」が問題になるのだろう。
細部にこだわりながら、より精度の高い「気配り」を目指して行こうと思う。
書籍には、誰にでもできることしか書かれていなかった。
特殊技能、資格などを必要とするものは、皆無だった。
それでも、「気配り」ができている人が少ないのは、どうしてなのか不思議に感じる。
書籍の中では、「気配り」ができる人を「ハイクラスな人」と表現していた。
その表現を鵜呑みにして良いのだろうか?
「気配り」ができない「ロークラスな人」が多いことにより、「ハイクラスな人」が存在できるような気がする。
相対的な話のように感じている。
「「気配り」ができない人たちと同じことをしない人。」
このような人たちが、「ハイクラスな人」なのだと思う。
このような人たちが、「人と違った気配りを見せる」ことができるのだと思う。
いずれにしても、この先、「higher class」を目指して行こうと思う。