投稿日:2021年02月18日(木)
表顕力
「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」
戦国武将 徳川家康の格言です。
巷間、真実のようで嘘だったり、嘘のようで真実であったりすることが溢れております。
インターネットの台頭により、情報過多に陥り、何が真実なのかが、わからなくなってしまいます。
民主主義国家故に、マジョリティの意見が、真実と解釈することが真実なのでしょうか?
若しくは、プロパガンダによる情報操作により、嘘を真実と思わされているということが真実なのでしょうか?
いずれにしても、真実か否かを判断するための「ものさし」が、自分自身に備わっているかどうかが問われているような気がしております。
いわゆるインフルエンサーの発信する情報が、すべて正しいのだろうか。
時々、そのようなことを考えたりすることがありますが。。。
古今東西、「嘘らしき真」は、大衆の常識から外れたものなのだと思う。
少し俯瞰して考えると、「常識」として認識されていることに違和感を覚えることがある。
多分、「真らしき嘘」に触れているときなのかもしれない。
左脳で考えると不自然なことも沢山ある。
理屈として成り立っていないような気がしながらも、あまり反応しないように努めている。
波風を立てたくないなどの感情からではなく、不自然なことをそのまま受け入れることがある。
不自然なことも、また真実なのだと解釈するようにしている。
周りの話が真なのか嘘なのかは、自分自身が、どう判断するか次第。
どちらにでも判断できる。
そうであれば、全てを真と捉えて、次のアクションを起こすキッカケにして良いのではないかと考えている。
問題は、自分が発信する情報が、真なのか嘘なのか。
自分自身が、絶対的に「真」であると考えていても、周りがどう解釈するか次第になる。
重要なことであれば、議論の余地はあるが、そうでなければ、相手の感受性に委ねるしかないと考えている。
世の中の変化を実感しながら、今までの常識が、非常識に成りつつある。
逆に、今までの非常識が、常識に成りつつある。
パラダイムシフトを声高に叫んでも、「嘘」と解釈されてしまえば、それまで。
「真」をどのように発信していくのかを考えたりする。
そこにテクニックが存在するのだろうか。
相手の機嫌を取りながら伝えることが、正しい方法なのだろうか。
色々と考えながら、思うことがある。
結局、周りがどうこうは、全く関係ないのだろう。
誠実さを保つことができれば、全てが「真」となるような気がする。
厳密に言えれば、誠実さにより、周りが「真」と解釈してくれるような気がする。
この格言により、我を通そうとする気持ちが、諸々問題を起こすのだろうと思わされた。
投稿日:2020年03月09日(月)
大学卒業後、「学者」として仕事をしていた「父親」の影響が強いと考えております。 「門前の小僧習わぬ経を読む」 父親の「論理的な思考方法」は、僕にとって、「習わぬ経」だったとの確信があります。 父は、北海道の […]