投稿日:2021年04月21日(水)
冒険力
「自分を破壊する一歩手前の負荷が、自分を強くしてくれる。」
ドイツの哲学者 ニーチェの格言です。
筋トレをしていると、「筋肉痛」を意識してしまいます。
「筋肉痛」を感じることができれば、「負荷」がかかっていると認識できるからだと思います。
少し無理をしていると思えるくらいが、ちょうどよい「負荷」のかかり方のように感じております。
逆に、無理をしていると感じなければ、「負荷」がかかっていることはなく、トレーニングとは言えないような気がします。
「もう無理!!」と思った後のアクションが、前進させてくれるのではないでしょうか。
何となくやっていると感じることのできない「負荷」は、とても重要なものであると感じております。
筋トレに拘わらず、色々な場面で「負荷」を意識するようにしておりますが。。。
「先延ばし癖」
皆が悩まされている悪癖の一つではないだろうか。
先延ばしせずに片付けたいと思いながらも、先延ばしをしてしまう。
もしかしたら、この「先延ばし癖」は、「負荷」を掛ける行為を回避しようとする行動からくるものなのかもしれない。
「負荷」がかかるのを「先延ばし」にする。
「負荷」を掛けたくないから、「先延ばし」にする。
「負荷」を避けるためのものでしかないように感じている。
少し複雑な作業についても同じような気がしている。
複雑であるのならば、単純な作業に分解することで、複雑さを回避できる。
複数の単純な作業を一つ一つ片付けて行けば良いのだが、一つ一つを片付けない限り、全体の作業を完了させることはできない。
折角小分けにした作業が進まず、全体の作業を完了させることができないのは、何らかの「負荷」を回避しているからなのかもしれない。
小さく分けた作業の中にも、「負荷」と感じさせる要素が含まれているのかもしれない。
結局、人間は、無意識に「楽をしたい」と考えているのだろう。
若しくは、「苦しくなりたくない」と考えているのだろう。
いずれにしても、自分自身を強くするためには、「負荷」が必要不可欠である。
「負荷」と感じることのない「負荷」は、存在するのだろうか。
「気付いたら、知らない間に「負荷」がかかっていた。」という状況はあり得るのだろうか。
筋トレなど、肉体的な問題であれば、多分、あり得ないように思う。
「負荷」をかけた後の身体は、疲れていることを実感している。
精神的な問題であれば、あり得るだろうか。
「「負荷」をかけるのが当たり前。」という状況が可能であれば、ある意味、あり得るような気がする。
その状況を創り出せるとしたら、「習慣化」のような気がしている。
「習慣化」できるまでは、かなりの「負荷」がかかっているのかもしれないが。
この名言により、少し無理をしてみるというスタンスで、様々なことに取り組んでいかなければと思わされた。